冷淡さの原因
ちょうど一年前の今日、1月27日は、銀婚式に当たる日でした。
でも、妻に背を向けていた僕は、まったく自分のことだけしか考えておらず、
そういう節目の日を迎えたことにもまるで気づいていませんでした。
活動休止後に妻から聞いてはじめて知ったのです。
その頃は、次女が大学受験のさ中だったにも関わらず
長女がノロウイルスにかかり、次女にもうつってしまったので、
家族は2月中かなり厳しい時間を過ごしていました。
けれど僕は、今から思えば絵空事にすぎない世界にハマって、
家族のことをまるで意に介さずにいました。
いくら夢から覚める前とはいえ、
きわめて薄情で冷淡だったと思います。
平然とそんな態度をとれたのは、
たとえ自分を貫くことで妻子の心が傷ついても、
それは本人の問題であり、
彼らが自分で解決すべきだと信じていたからです。
僕には、他人から負わされた心の深い傷を 自分自身で癒してきたことへの強い自負心があり、
心の中に起こるネガティブな反応を誰かのせいにするのは、 自分の感情に対する責任の放棄だと思っていました。
たとえ誰かにひどく傷つけられたとしても、 その痛みに囚われたまま惨めでいるかどうかは本人の責任であり、 だからこそ、自分次第で痛みから自由になれるのだ、と考えていたのです。
このような捉え方は、 小学生の時に受けた屈辱的ないじめの記憶や 恋愛中に起こった激しい嫉妬の苦しみなど、 多くの心の痛みから、確かに僕を解放してくれました。
けれども、それを、無意識のうちに 誰もが従うべき規範のように考えてしまったことが、 僕の大きな過ちだったと思います。
三森真人として活動していた間、
自分が家族に与えている現実とあまりにもズレた感覚でい続ける僕に
妻は苛立ちをつのらせ、次第に苦しみから怒りをぶつけるようになりましたが、 それに僕はほとんど耳をかさず、取り合おうともしませんでした。
それは、彼女のほうこそ、 自分の苛立ちや怒りに対する責任をもつ「べきだ」と考え、
自分のあり方を正当化していたからです。
人は「~すべきだ」と信じて自分が真面目にやってきたことを 他人がやろうとしないと、厳しく責めたくなりがちですが、 僕の中にも、妻を裁く気持ちがありました。
そして、それが彼女に対する冷淡さという形になって、
さらに妻を苦しめてしまったのです。
以下は、僕が活動を休止した頃、妻との話し合い中に 次女から送られてきたメッセージの一部を抜粋したものです。
僕のあり方が子どもの目にどう映っていたか、よくわかると思います。
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あなたが少数派の視点や考えを持っているのは 理解しているつもりですし、それが悪いとは思いません。 大多数がすべて正しいわけではないです。 でも、あなたの娘は、大多数の考えを持つ人間です。 考えに違いが出るのは当然です。 ただ、その考えを相手に強要せずして 自身の行いを認めることができないのだとしたら、 相手の考えに当てはめて同じ説明をすることができないのだとしたら、 それは果たして自身に非がないと言えるでしょうか。 母が離婚を望むのならば、支えていくつもりでした・・・
今もこれからも父親ぶれとは言っていません。 最低限の責任は、せめて子どもが自立するまでは 持っていてほしいということです。
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