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純粋な本質だけが残る


昨日は、義父の9回目の命日でした。

3年前の記事「無常迅速」でも触れましたが、

義父の葬儀で耳にした『白骨の御文書』の 「朝(あした)は紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となる身なり」という 強烈なフレーズは、今でもよく憶えています。

死は、誰にでも、遅かれ早かれ必ずやってくる――

この世の生は実にはかないものだ…ということを忘れがちだからこそ、

あえて「白骨」という言葉が使われているのでしょう。

実際のところ、この世でいくら成功して富や名声を得たとしても、

それは、浜辺で “砂の城” を作るようなものです。

ひとたび、波が打ち寄せれば、それはあっという間に押し流され、

跡形もなく消え去ってしまいます。

あなたがどれほど財産を所有していようが、

どれほど脚光を浴びていようが、

無常の風が吹けば、すべては取り去られてしまうのです。

それまでに達成したことや、獲得したものもすべて失い、

肉体や思考すらも取り去られます。

あとには、あなたの純粋な本質だけが残るのです。

この本質を、生きているうちに発見しようとする努力、

それが、禅などの求道者が昔から試みてきたことです。

それは、虚構のエゴからリアルな存在へ、

いずれ消滅するものから不滅の本質へと向かう探求の旅です。

その旅の中で、あらゆるものに気づいている “土台の意識“が

身体や思考から分離していると自覚できれば、

死の恐怖は消えてゆきます。

肉体がなくなっても、この本質の意識は、

“永遠のいま、無限のここ” に留まると分かるからです。

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