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道とは、途中下車できない汽車に乗り込むようなもの・・・

先日、こんなフレーズをふと思い出しました。

たしか、禅をアメリカに広めた鈴木俊隆老師の

『Zen Mind, Beginner's Mind』の中に出てくる言葉だったと思います。

ひとたび精神的な道を歩き出したら、途中で嫌になって道から離れても、

未完の課題が残っている限り、再び道に戻って最後まで行かざるをえなくなる・・・

そういった意味が込められた言葉です。

昨年11月の安曇野穂高

自分の半生を振り返ってみても、本当にそうだなぁ、と感じます。

僕が道を歩き始めたのは、19歳の頃・・・

自分の中に求道心と呼ぶべき衝動があるとはっきり自覚した時でした。

それがどんなものだったかを理解してもらうには、

次のクリシュナムルティの言葉を読んでもらうといいかもしれません。

ほとんどの人々は、不満を抱いているのではないだろうか?

しかし彼らは、生の安易なものごとに満足を見い出してしまう。

それが登山であれ、あるいは、何らかの野心の達成であれ。 それゆえ我々は、表面的に生きるに留まり、決して不満の深さを測ることがない。

勉強や仕事、金や地位や権力を追求する競争、 伝統、所有しているもの、持てるかもしれないものに不満で、 あらゆる既知のものに全面的に不満であるなら、 その深い不満が「何が真理か」を見い出そうとする反逆精神になる。

僕の中にも、まさにここに書かれているような全面的な不満と

何が真理かを見い出そうとする反逆精神があると、当時、自覚していたのです。

しかし、そうした求道心が、その後もずっと強烈なままだったかといえば、

決してそうではありません。

就職・結婚・子どもの誕生といったライフイベントによって

生活のパターンが変化してゆく中で、道から離れてしまい、

すっかり日常性に埋没していた時期も何度かあります。

でも、そういう時期がある程度続くと、だんだん苦しくなり、

再び道へ戻って、先に進むということを繰り返してきました。

そして、その途上で、2006年に意識の目覚めが起こり、

心の本性である純粋意識の無限の広がりを認識できるようになりましたが、

その地点から、さらに先へと進んできたのです。

精神世界に興味のある人の多くは、

「意識が目覚めれば人生は好転する」という教えを、安易に信じがちです。

しかし、実際は、そんなに単純ではありません。

精神的な成長のプロセスが進むと、人生が一定期間好転することはあっても、

未完の課題が残っていれば、それに直面せざるをえなくなるような

苦しい状況にいずれ追い込まれます。

僕は、この数年間、それを身をもって体験し、

妻との関係性という課題に取り組むことで、

伝統的な教えは「生きている師に帰依しなければ道に迷う」と言います。

たしかに師をもたなかった僕は、何度も転び、たくさん過ちを犯してきました。

でも、遠回りはしたけれど、これで良かったと思っています。

最近は、僕の歩き始めた頃よりもずっと多くの人達が、

エックハルト・トールや非二元の本などを読みながら

一人で探求するようになってきました。

それは、例えば禅門に入って修行三昧の生活をしたりするよりも、

世間の中で探求するほうがカジュアルに思えるからかもしれません。

けれど、実際には、社会の中で一人で探求を続けるほうが

かえって苦しい道のりになる可能性があります。

僕がそうであったように、何度も道に迷ったり、落とし穴に落ちたり、

過ちを犯したりすることは避けられないからです。

時には、完全に八方塞がりになったように感じることもあるでしょう。

もし、これを読んでいるあなたが既に一人で道を歩き出しているなら、

是非一度、個人セッションを受けてみて下さい。

僕がどうやってここまで辿り着いたのか、その体験のすべてを、

あなたより少しだけ先を歩く旅の仲間として、分かち合うことができます。

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